獅子塚石室 (石室の奥壁を臨む)
(死体を安置する石の部屋)
このペーには下の写真は、馴染まないが
若狭考古の学問的歴史を証言する写真なので手前味噌で掲載するにはばかるが記録しておく。写真は若狭町下タ中(山内の地主)山頂にある古墳..1957年、高校の夏休みの時。左は森下譲(内浦小学校勤務、1969年死去) (享年28歳) 共に小学4年の時担任で、恩師、城谷義視先生の教え子(山頂古墳でこれだけの大石室は若狭では今のところ知られていない。(右、上野晃)
1957年の夏 |
若狭で,最も古い古墳は「前方後方墳」、今のところ古墳の形から、首長墓としては三方(写真)以外に若狭では知られない(松尾谷古墳、) その後「大和の国(大王)?」と繋がる墳墓、前方後円墳は4世紀末〜5世紀初頭には造られ向山古墳(堤)城山古墳(大鳥羽)、上の塚、西塚古墳(脇袋)など、脇袋集落を、中心に8基の前方後円墳が存在している。若狭脇袋集落は北川の清流を見下ろし.、小浜の海を展望できる地域で一族の墳墓地域に死後にもその威勢を誇示きる地帯であった。この一連の前方後円墳は「膳部氏の一族」とされている。その後,時代が下り6世紀に入ると、美浜町「獅子塚・写真」と高浜町に2基の若狭の国では最後の 前方後円墳が造られるようになる、おそらく在地豪族が大和大王の国に組したあらわれと考えられる。特に獅子塚の埋葬の品には特殊な物があり、埋葬者の地域での特徴性を伺わせる。
小生と故、森下譲が子供の頃、若狭大鳥羽の城山前方後円墳を発見した、〔斉藤優)あえてこれを記すのは故人、大森宏氏の努力である。氏は体調不全をもちながら山城を訪ね歩くうち幾多の山頂の古墳を発見している。 行政発掘を手助けする大学学問。
若狭古墳研究には興味的性格で古墳の調査が大学や行政で、国予算等で行われた(大鳥羽城山)、や前方後円墳等の成果は一塊の人にしか知らしめられず、歴史家とは郷土で努力した人を無視するやから。彼らの云う学問の美名にはワレワレ預かった事はない。
報告書も出さず出版社の高価な本には学者も、行政マンも成果として出版している。、言いたくないが彼らの美名行為に過ぎない。
← 大谷古墳(若狭町下タ中。山内集落宇野家もち山) 城谷先生と共に果敢に、この古墳の清掃にあたった。城谷義視は、若狭考古の先人である。
大谷古墳は山頂に巨大な石室を持つ円墳で三宅の平野部に築かれた巨大円墳、丸山古墳と共に6世紀半ばころ出現する。このころ若狭では前方後円墳は築かれなくて在地の豪族がタイトウし始めた表れかも知れない。
興 道 寺 窯 の 謎 三方郡 美浜町興道寺
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