神子散策
NHK大河ドラマ“新撰組”木戸孝允の妻『幾松(松子)』は神子出身!
■幕末・明治維新時代の代表的な政治家、木戸孝允(旧名:桂小五郎)の正妻「幾松」は幼少の頃、常神半島、神子で暮らしていた。
■昭和57年4月10日、松子の命日に、神子 慶運寺の境内に大理石の『幾松観音像』が建立された
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■幾松の幼少時代
1843年(天保14年)、若狭小浜藩主に仕える武士、木崎市兵衛と、同藩神子浦の医師の娘、細川末子との間に長女が誕生、「計(かず)」と名付けられた。
1848年(嘉永元年)頃、小浜藩で起こった事件で、計の父が浪人し家を出てしまう。計は母と妹とともに母の生家である神子の細川家に引き取られ暮らす事になった。
その後、計は京都の九条家の養女となるが生活に困り、13歳にして養母の芸名「幾松」を名乗り、祇園の芸妓となったのである。
■孝允の妻となった幾松
やがて祇園の名妓となった幾松を贔屓にしたのが桂小五郎であった。
幾松が19歳の春、二人は伊藤博文を仲人として結ばれる。
しかし桂は討幕派の先導者であったため常に幕府に追われる身で、ついに一人で京都を出ることになった。
幾松は長州藩の切迫している現状を伝える為、同志らと数々の危険を冒しながら、桂が潜伏している出石(兵庫県北部)へと向かう。
長州藩の事情を知った桂は下関に戻り、藩を救うための索を講じ、やがて明治維新を成功させるのである。
桂小五郎は名を木戸孝允と改め、明治政府の参議となった。幾松は岡部利済の養女として正式に孝允の妻・松子となった。
1877年(明治10年)に孝允が病で逝去するまで、松子は良き妻として看病し続けた。
孝允逝去後、松子は尼僧となり1886年(明治19年)4月10日、44年の生涯をとじるのであった。
「木戸松子傳」より
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